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短編作品集『回転木馬の残光 #1』

短編作品集『回転木馬の残光 #1』

2017.7.22(sat)@Pops倶楽部

OPEN 19:00/START 19:30
※上演時間:80分(予定)

 

料金
[前売]一般1500円+ドリンク500円
[当日]一般2000円+ドリンク500円

 

チケット予約
公演特設サイト http://eso.under.jp/zankou/

 

6月29日以降のチケット予約分に関しては、立ち見となる可能性があります。

既に予約されているお客様分の座席は確保いたしますが、開演予定時刻の5分前までに受付を済まされていない場合は、立ち見となる可能性があります。お早めのご来場お願いします。
 

<会場>Pops倶楽部
※浜松市中区田町331-9 マルケンビル6F
※JR浜松駅徒歩4分、遠鉄第一通り駅徒歩1分


短編作品集【回転木馬の残光】―
「より多く人に、より多くの場所で」その想いを実現する為に立ちあげた新シリーズ。短編作品を3〜4編程度の作品を連続上演。展開次第では本公演では観られない”既成台本”の上演もある!?


第一弾はこれまで未上演だった台本や創作過程で生まれたアナザーストーリーを厳選し再構築。観れば「これが迷子の遊園地だ!」と体感できる濃密な1ステージ限定公演!


上演作品

 

「あと少しの、絶望」 辻ゆう子×東桜子
2014年の映像×うた×演劇のイベント「蒼い無花果」で上演した作品のリメイク版。眠り続ける妹、それを助けようと金を集めている姉の物語。

 

「回転木馬の憂鬱」 水野史奈子×石川隼ノ介×日浦カズトシ×杉谷靖一郎 and more
稽古用にと執筆し、使われることなく放置されていたもの。回り続ける木馬たちの会話。

 

「愛しの人」 森園みらい×酒井麻衣
Act18の候補として執筆した台本をベースに短編としてを再構成。難病を克服した少女とその主治医の物語。

 

「最後の手紙」北澤さおり×宮本あゆみ
2015年に執筆するも未上演のまま眠っていた短編を再構成。認知症の老婆とその孫の物語。

 

【作・演出】藤田ヒロシ

 

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”デジャヴ”を越えて行く!

昨日は朝からひと騒動。”トラブルメーカー”始動(苦笑)でブチ切れ!!!!!この”デジャヴ”を”恒例”にしては行けない。与えられたのは最後のチャンス。

 

それを見事掴み取った!!!!!

 

とは言い難い。

 

しかし”もう次はない”は確実に伝わっただろうし、またそれを”忘れた”となれば、もうそれは”そこまで。”の話。劇団としての答えは出ている。あとは自分がどこまで自身と劇団と仲間を信じて”曝け出せる”か?

 

うまい芝居を求めているわけじゃない。そもそも「うまい芝居」なんて迷子の遊園地の辞書にはない。(ヘタはあるらしい 笑)その事を散々言われてきてもまだ「うまい」を求めている。だから「置きに行く」。しかし「何処にうまいがあるかわからい」(当然です。ないですから)で「迷走」。

 

「コレです」と、明確に”見本”や”答え”を提示してもらえれば簡単。でも、そんな”コピー”を集めて「作品です」としたいわけではない。自身が自ら考えて、模索し、挑戦し、失敗し、”痛み”と”悔しさ”を重ねた後に辿り着いた場所こそが””求めて来た場所”なのだ。仮にそこが”全くの新天地”ではないとしても、自ら・・・そこが大切なのだ!!!!!


と、まぁ、こんな話も”デジャヴ”(笑)


本番を前にして”個人の問題”などは存在しない。全ては”チームの問題”である。解決策は個人の中にはない。チームの中にある。つまり最小単位は”チーム”なのだ。だから「自ら・・・」それは個人個人ではない。個人の内側に”進む方向”が見えなくても怯える事はない。独りではない。

 

我々は迷子の遊園地。メンドクサイ者であり、劇団だ。
 

迷子の遊園地オフィシャルサイト

前売予約【完売】

「回転木馬の残光 #1」(2017.7.22 Pops倶楽部)の前売予約は予定数に達しました。多くのご予約ありがとうございます。

なお、当日券に関しては販売の有無を含め公演当日13時以降に当サイトおよび劇団関連SNS等でお知らせいたします。
迷子の遊園地オフィシャルサイト

壊してこそ

時に観る側に”強いる”舞台がある。内容も、演出も、劇場空間も、決して”お気軽に”などではない。セリフのみでは解読できない物語と感情。身動きも呼吸も瞬きさえも許されないような緊張。当然にその客席に座るには覚悟が求められ、役者が演技をするという行為に対しての技術が必要なのように観客にもまた観るという行為に対しての技術が求められる。

 

先日観た「ドグラ・マグラ」もそうだったと言える。

 

そういう舞台が僕は好きだ。映画はそうでもない。ポップコーンとコーラを楽しみながら・・・と言うような作品も好きだ。だが舞台はそうではない。観せる側、観る側の間にある種の”闘い”が存在し、互いに”試されている”という緊張感。それがあってこそ舞台作品。それは原点であり、目指すべきものである。

 

とは言え、それが”苦手”という人も当然存在する。むしろこちらの方が多数であり、だから「お客を増やしたい」のであれば、”強いる事ない作品”を選択する事は理解できる。分母が大きい方を選択するのは常套手段だ。

 

しかし、僕にとっての舞台が”強いる作品”である以上、そうでないモノは舞台でも演劇でもない。仮に【”強いる”事ない作品にすることが近道】を選んで、集客力アップしてもそれに対して喜びようがないのである。

 

もちろん自らの思う舞台作品で観客が増えることは望んでいる。だから必要な情報は発信するし、ネット頼りの広報はしない。手間も暇もかけ、汗もかく。でもノベルティーなど作らない。チケットの値段も下げない。何かで釣ったり、自らその価値を下げるような提示はしない。名が通った者ならばそれは”特典”にもなるだろう。しかし”未だ成し遂げていない者”がそれに手を出したら「これ以上、作品力ではどうにもならない」という宣言のように思う。集客ー何はともかく”作品に完成度”だと思っている。突きつめて突きつめて突きつめて突きつめて突きつめて・・・真に力を持った作品は、観る者の趣味趣向を、理屈を越えて受け入れられるもの。真に感動をすれば人は誰かに話したくなるものである。

 

”間口は狭い”と理解しているが、その上で多くの人に観てもらい。多くの人に酷評され、絶賛されたい!

 

「この街では・・・」と、口にするくらいなら、迷うことなどない”この街”なんて捨てればいい。
「アマチュアでは・・・」と、口にするくらいなら、迷うことなどない”アマチュア”なんて捨てればいい。

 

迷子の遊園地は「劇団」であり、それを主宰する僕は「演劇人」だ。「馬鹿だ!」と笑われてナンボ。”固定概念”を壊してこそ存在意義があると言うものだ。

迷子の遊園地オフィシャルサイト

『ドグラ・マグラ』体験−終わらない舞台

「自分と言う存在が一番理解できない存在」と言うと少々陳腐だけど、それはやはりそうなのだと思う。

 

「私」それは「他人」に認知されてこそ存在する。「自身」は「私」が他人の内に存在している事を認知しようやく「私」を実感する事ができる。だから自己完結では「私」は成り立たず、生きている意義を見出すことなど出来るはずもない。「孤独」とは「私の不在状態」の事なのだろう。


「役者」という存在。「観客」という存在。も同じだろう。「役者」は「観客」、「観客」は「役者」に認知されることでその存在が明らかになる。もちろん「演劇」自体もそうだ。要するにこの世の全てがそうだ!存在が自己完結するなどない。であるから、僕と言う「自身」は今、「私の不在状態」にはないと同時に誰かしらを「私の不在状態」にしない存在となっていて、決して楽しい事ばかりではないが「幸福」な事だと断言できる。


演劇企画集団THE・ガジラ年間WS公演『ドグラ・マグラ』を観て、そんなことを思った。けれど、それは客席で考えていたことではない。むしろ客席では何も考えていない。ただただ目の前の世界に入り込んでいただけ。一瞬「これ以上、入り込んだら出られなくなる」というこれまでにない感覚を持ったほどに入り込んでいただけ。その時に体験した言葉、息づかい、蝋燭の灯、振り子時計の音・・・etc.が頭や腹の中でぐるぐると廻り、観劇後17時間経過した頃に不意に上記のような思いを形成した。僕の中に確実に『ドグラ・マグラ』が残っていて、きっとこの先も何かの拍子に何かを形成するのだろう。それは今回の思いとは全く異なるものかもしれない。いや、異なるものだろう。それが生まれた時に僕はそこに「正解か否か」ではなく、「私」の新たな断片を見てワクワクするのだろう。そして、そのすぐ後で「やられた!まだ続いていやがる、『ドグラ・マグラ』!」と出逢ってしまった不運と幸運に浸るのだろう。

 

僕が「お客にこんな思いをさせたい!体験させたい!」と言う事を、僕がお客として体験できた・・・本当にいい舞台でした。

 


書きながら、続きが湧いてきたので・・・それ↓


「私とは何者で、なぜ存在するのか?」と言う自問は思春期固有のものではない。はじめてこの自問をした時が自我の目覚めであり、そこからありとあらゆる人や物に触れて、抱えて、壊して、また触れて・・・と繰り返し「私」の断片を集めて行く。そこにはおおよそ誰しも何かしらの「欠落」が存在しているが、一方でそうと気付かない事も多々あると思う。そもそも「何が完成形なのか?」それを知らないからだ。だから「欠落」があると断言はできず、収集した「私」を認めたくないだけで「ないものねだり」の範疇かもしれない。しかし「完成形」を知らない以上、それもまた断言できるはずもない。「不安」とは「欠落の有無の不明」の事なのだろう。

 

生きて行くとは「孤独」と「不安」の中にいる状態で、そこから「抜け出したい」と足掻く事なのだろう。

 

それなのに!ここ数年間で出逢った者の中には「私」を「自身の中」のみに求め、見出し、「孤独」と「不安」を遠ざける事に必死になっている者が少なくない。初めて目にし、触れているのだから「出来ない私」「わからない私」とは当たり前に出逢うにも関わらず、それらの「私」を認めようとはしないで「自身の中」でのみ消化しようとする。なので一向に「出来る私」「わかる私」には近づく事が出来ず、その果てに「此処は自分の求めてる場所ではない」「それは自分の考えているものとは違う」と安易に納得できそうな理由を持ち出す。

 

それはそれで、「孤独」と「不安」の中にいる状態で、そこから「抜け出したい」と足掻いている姿なのかもしれない。それでも、どうしても違和感がある。そして、それを「処世術」だと信じさせてしまった「自身」の周りにいる「他人」に憤りを覚える。以前、僕の作品を観劇した方に「憤り、怒りが創作のエネルギーなんですね」と言われた事があるが、劇団を持ち続ける事もそうなのかもしれない。いや、以前は決してそんなことを思っていたわけではないが、ここ数年は「私」として自覚して始めているのだろう。だから「出来ない私」「わからない私」をどうにかして認めてもらいたいと、僕も足掻く。

 

「孤独」と「不安」の中にいる「迷い子」たちが集まって来る。まさに「迷子の遊園地」。まさに類は友を呼ぶ。放っておけるはずもない。その出逢いが劇的な変化に繋がるかどうかは誰にもわからない。わからないが出逢った瞬間に「私の不在状態」に変化が生まれていることは確かで、互いの「私」の断片が一つ増える。それらを繰り返し、僕たちは成長をしてゆく。早いか遅いか・・・速度は問題ではない。年齢も問題ではない。今の「私」を認めたくないだけで「ないものねだり」の範疇と映ろうとも、僕たちは「私」を諦めない。「未完成」だからこそ未来があり、希望を抱く。今度は僕たちが作り手としてお客に体験させる番だ。

 

 

幕が降りても決して終わらない。『ドグラ・マグラ』・・・本当にいい舞台。

 

 

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