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様々な本心と共に舞台に立ちます

この時勢、イベント、ライブ、公演なんてやらない方がいいです。これは本心です。でも本心は他にもあります。それが僕が4月5日に舞台に立つ理由です。

 

稽古する場所、公演する場所があって僕は初めて作品を人前に出せます。地方では公共の(やたらキャパがデカイ)ホールはあれど、民間の(ちょうどいい)小屋がほとんどない状況です。それでも近年、少しづつ増えて来てと感じでいます。またライブハウスやカフェやバーなどでも演劇公演をやらせてもらえるようにもなって来ました。多様な場所で公演が打てると言う事は新しい観客に出逢うチャンスが増えることであり、その機会を与えてもらえた。小屋主にお世話になって来ました。

 

その場所その場所で「色」があります。ライブハウスなどで公演を行う場合、その色を壊しかねないのでは?と躊躇し「演劇をやらせてほしい」と最初に口にするのはいつも勇気がいります。いつだって「断られる覚悟」を持って臨みます。でもいつだって「是非」と言ってくれました。「やったことないけど、出来るならいいよ」って言ってくれました。「楽しみだ」と言ってもらいました。一緒になって僕の作品を作ってくれました。本当にありがたい事です。

 

そんな場所が今の『自粛要請』で苦しんでいます。その『同調圧力』で苦しんでします。『自粛』である以上『自らの判断』です。場所を開き感染者が出れば「それ見た事かっ!」と叩かれ継続が不可能になるかもしれません。一方、場所を閉じれば売上がなくなり継続が不可能になるかもしれません。共にその結果、生きる事が継続出来ない可能性だって充分にあります。「自分の店から感染者を出したい」なんて思っている小屋主は誰もいません。それでも開いているのは反骨精神でも、文化を守る使命でもなく、生きる為なのです。

 

反骨精神や文化を守る使命であった時期もあったと思います。でも、もうその時は過ぎたのだと思います。感染が「新たなフェーズ」に入ったと同じく個々の生活も「新たなフェーズ」に入ったのです。

 

繰り返しますが、「自分の店から感染者を出したい」なんて思っているオーナーや店主は誰もいません。ですから「止めてくれ」と明確な意思を示してくれれば確実に従います。もちろん、生活の保障が伴う形でなければなりません。『自粛』などと言う「どうにでも取れるけど、わかるよね?」的に忖度させる言い回し、パワーハラスメント的な言い回しで、首を締められていく姿など見るに耐えられません。そんな状況なのに出演者(あるいは主催者)が中止か開催かの選択に苦悩している姿を見るに耐えかねて小屋側から「中止」を言い出す事もあるのです。

 

本当に苦しいです。自分が苦しい時には支えてもらうだけでは苦しんです。自分が助けて欲しい時だけ歩み寄るは苦しんです。

 

だから、僕は舞台に立ちます。『自粛』という言葉で曖昧にされない様に、明確に「止めろ!」と言わせ「生活保障はする」と言わせる為に、立ち続けます。もちろん、僕の生活保障ではありません。ライブハウスや劇場関係者たちだけに限った思いでもありません。『自粛』や『要請』により収入を失っている全ての人々への補償です。

 

たまたま僕は演劇をやって生きた人間なので、自分の言語である「演劇」でそれを叫ぼうと思っているだけです。いまは「立ち続ける事」が叫び方だと信じているんです。ですが、単に僕が苦しみから逃げ出そうとしているだけかもしれない。単に偽善者かもしれない。我儘を正当化しているだけかもしれない。そのでれもが本心です。

 

だから今回は「出ます」「やります」とは言っても「観に来て下さい」とは言いません。「客ゼロ」ならそれはそれで立ちます。舞台立つ事が生業ではないから、でも生業以上であるから、いまは「客ゼロ」でもいいんです。この混沌とした状況が過ぎ去った時に「いつもの場所」で皆さんと再会したいのです。だから僕は4月5日に舞台に立ちます。

 

最後までお読み頂きありがとうございました。 藤田ヒロシ


 


日常を生きて行く

自主公演で自分が主催者(責任者)の時とは質の違う腹のくくり方が求められている気がしています。

 

演劇とは、芸術とは社会が困難に直面している時こそ「在り続ける」事こそが使命と言うか意義なのだと思ってきました。困難の時に「そんなもん誰が観るかっ!」という方もあるでしょう。「今ある困難は質が違う」という方もいるでしょう。

 

ごもっともです。だから何もしないで今を乗り切り、未来を手に出来ると確信が持ているなら、何も動かずじっと、ひっそり…時が過ぎ、時が来るのを待つでしょう。

 

しかし、やはりそうは出来ない。それが身勝手なのか?癖(へき)なのか?それはわかりませんが、困難を目の前にして僕はなお未だに「日常であろう」としています。そのことは目の前のことに背を向けているのではなく、冷静にそれらと向き合おうとする姿の一つ…そう信じています。

 

パン屋さんがパンを焼き、魚屋さんが市場に仕入れに行き、美容院が洗いたてのタオルを用意する。それらの店が"いつものように"開くことで社会が、街が、人々が生きて来た。

 

その中に僕もいる。と、思って来た。しかし、それは幻想かもしれない。演劇人が稽古を重ね、劇場に向かい、幕を開く。それは人が生きている営みとして受け入れられていないのかもしれない。所詮は河原乞食…だとしても、僕は此処に存在し、稽古を重ねている。どうしても自分が無価値とは思いたくない。そして…

 

どんな店も、劇場も、開いたからと言って客が来るとは限らない。人々にはそれぞれに優先すべき日常がある。パン屋にも魚屋にも美容院にも行かない人はいる。それでいいし、それが日常的だ。だけれど、閉まっているは哀しいし、寂しい。自分が行く行かないの問題ではなく、「街の中にいつも開いている場所」があるという日常が必要だ。

 

今はそんな想いをじっと静かに信じています。

 


いまは深呼吸

理由が何であれ、想いが何処にあれ、公演やライブや展覧会が「中止」になるのは…開催告知のポスターの上に「開催中止」と張られているのを目にするのは…単純に、純粋に、辛い。

 

今日もまた幾つかの"辛い"に触れた。各主催者の判断は尊重したい。いや、している。だから"辛い"のはその判断そのものではない。

 

今回のコロナウィルスの件に限らず、その"辛さ"に触れる度に「一体何の意味があるのか?」と自分の活動を思わないわけにはいかない。意味…その存在価値を突き付けらる事だ。

 

好きだから、やりたいから、楽しみだから…それは不可欠な要素だが、それだけでは乗り越えられない事があり、通用しない相手がある。

 

だから、いま飛び込んで来る「中止」も文字の一つ一つを「自分事」として受け止め、学び、成長し、求め続けられる身であること。この"辛さ"への答えはそれのみの気がする。

 

そして、それは"空気"に乗るでも、歯向かうでもなく、深呼吸しての平常心で。


"娘"自慢

"娘"が東京に旅立ちました。専門学校に通う為。(にもかかわらずこの春に旗揚げ公演を打つ劇団に入った様です)ここに辿り着くまでに色々な事がありました。僕はただ"見守っている"だけでした。何があっても何が起きても「自分を諦めなかった」"娘"本人のチカラです。だからこうやって彼女の事を書きたくなるんです。「スゴイだろ!?」と・・・そう"親馬鹿"です。

 

"末娘"の旅立ち。これで同市(浜松)に住んでいる者はいなくなり、"長女"から順に遠方に住んでいる事になります。みんな"親離れ"しそれぞれの道を歩んでいます。

 

時々その道が重なる事もあるでしょう。重なりそうで並行のまま進む事もあるかもしれません。どこにその道があるのか互いに知らない時も来るかもしれませんが、それでも「自分の道を歩いている」事を疑う事はないでしょう。

 

「出来の悪い子ほど可愛い」などと言いますが、「この親にしてこの子あり」みんな「出来がいい」とは言えません。もちろんそれぞれに個性はありますが共通点は「不器用で真っ直ぐ」と言う事でしょうか?

 

この子たち(四姉妹)は一同に会した事はありませんが、いつかこの「自称、娘」たちをネタに芝居を書いてみようと思っています。全員舞台経験があるので「自分を演じる」ということで、僕は"子離れ"できない"馬鹿親"を演じる事にします(笑)

 

(2/17付facebook投稿に追記)


演技を求めて〜オープン稽古レポート

12月22日(日)に「オープン稽古」を開催した。これは僕自身が自主稽古する際に"一緒にやりませんか?"と言うもので、僕が講師となるワークショップとは全く異なる。共に「演者」として向き合うものだ・・・と、言っても参加者は居なかったのでひとり稽古となった。(今年最後がそれである。なんとも寂しいが、今年を象徴しているとも言える)

 

さて、今回やりたかった事はと言えば『演技』の"技"の部分である。僕はそれは『再現力』だと思っている。話す、動く、止まる…それらは日常的に行っている取り立てて特別な事ではない。例えば「笑う」ちょうど昨夜M-1があったが自分が面白いと感じれば、笑おうと思わなくても既に笑っている。それは当然、自然でリアルで嘘がない。しかし、それを"M-1を観ている者の反応"として再現しなさい」となると・・・そうそう簡単にはいかない。だからこそ其処に"技"がある。

 

『再現』なので既に起きた事を再び起こすのだが、この「起きている事」を何と捉えるか?先の例で言えば「笑ってしまった」事…ではない。その時「自分の感情・感覚が何に対して反応し、身体がどう反応したか?」だ。「笑ってしまった」はそれらの"結果"でしかない。つまり「笑う」という行為のメカニズムを知る必要がある。

 

その為にはゼロ地点、基準がないと測れない。そこで「フラットな自分」を知る。が今回の目的である。

 

まずは歩いてみた。ここ数カ月かけて"歩き方"自体の見直しはしている。足裏への体重の掛かり方、膝の高さ、骨盤の角度、胸の開き、肩甲骨の…と、それらを意識する事で最初は非常に硬い歩き方になる。この硬さがヒントになった。

 

硬い身体は『跳ね返す身体』となる。自分が居る環境内の変化を跳ね返す、影響されない、反応しない。そして、観る者の視線を跳ね返す。「フラットな自分」そのひとつは「反応できる、影響される身体」ではないか?ということでそれを探る。硬いではないなら柔らないとなるが、だからと言って"意識のない身体"でも"無責任な身体"でもないわけで…歩く、歩く、力んで歩く、抜いて歩く、考える、そして歩く。

 

そうしている内に気がついた!「あの感覚」が何であったか。「あの感覚」とは11月の一人芝居の稽古、本番で感じた「客が"居る"ではなく"ある"」という感覚の事だが、それが一体どういうことだったのか?自分に何が起きていたのか…それを知る糸口が明確に見えた。

 

舞台の上(物語の中)の世界で向き合うべき相手と向き合う事とき、客席という世界に居る者たちは「ある」のである。もしその者たちが「居る」では其処へ向きう事になる。それ自体が駄目と言うわけではなく、まず向き合うべき相手に向き合う事であり、それを疎かにして客席に向き合うと、舞台に居る人間の"観せよう"とする意識と客席に居る者の"観よう"とする意識が衝突し、跳ね返すのだ。これまでは…と、いうより2013年に名称を【迷子の遊園地】に戻してい以降、その衝突とそのエネルギーを求めていた。しかし、此処からはそれではない「演技」を求めたいのだ!と、自覚より先に求めていたのだ。

 

「舞台の上(物語の中)の世界で向き合うべき相手と向き合う事」当り前と言えば、当たり前だ。しかし、だからこそ難しい。落とし穴がある。其処にばかり気を取られれば舞台と客席が完全に分断され、世界は交わらない。観る者を物語へ招き入れる事が出来ない。つまりは空間が劇場のままで例えば「夜明け前の海」「小さなアパートの一室」「秋晴れの公園」などにはならないのである。「居る」ではなく「ある」のだ決して「居ない」でも「ない」でもない。

 

跳ね返すのではなく、受け止める身体、そして演技 ― かつて【演劇団S.O.】と名乗っていた時代。「生活を覗き見している様な…」「ドキュメンタリー映画の様な…」と言っていた時代。「急がば回れ」ということか…いま、演技を考える事がとても楽しい。。


ようやく始まったこの思考錯誤。確定的な事は伝えられませんが、共に思考錯誤してみませんか?…ということで、1月も「オープン稽古」やります。

 

【開催日時/会場】
1月29日(水)19時〜21時半/西部協働センター

【募集要項】
[参加資格]15歳以上 経験不問
[参加費]200円(会場費一部負担)
[募集数]5名程度
[詳細・応募]https://maigo.link/workshop.html


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