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20年経ってようやく・・・

この8月10日で劇団旗揚げから20年が経ちました。ちょっと驚きです。元々「諦めきれていない演劇とキッチリ決別する事」を目的に劇団を作ったので、まさか此処まで続くとは・・・しかし、良く考えてみるとそんな理由、それを知らずに入ってき者に失礼だったと思う(反省)

 

旗揚げの理由がそんななので活動自体にムラがあって、全く活動しない期間がしばしば。2003年には一度解散しているし、20周年といっても「20年間演劇を作ってきた」とは違う。それでも今年3月の「イケナイヨル-原罪」は「Act21」。朗読劇シリーズの4本と7月の短編集を入れると26本。つまり年一回以上ペースで作品を作ってきた事になる。それも全てオリジナル。これだけやっても、結局のところ僕は演劇を辞めていない。「目的果たせず」のままだ。

 

いや多分、一度解散した時に当初の目的は達成されたのだろう。そして、別のモチベーションの下で劇団を維持している。

 

では、それは一体・・・?

 

実のところ自分にもよくわかっていなかった。劇団を持った以上、作品を作らないと・・・そんな何とも乾いた理由で作ってきた時期もある気がする。その風向きが変わったのが2011年の震災だと思う。多くの人がその震災を直接間接問わず体験したことにより人生観に変化が生まれたように僕にも変化が生まれた。「生きる」と言う事に真摯に向き合おうと思ったのだ。

 

そんな中で「わっと騒いで、すっと忘れてゆく」だったり「強者が弱者を虐げる」だったり「権者になびく風潮」だったり・・・どうにもこうにも心の中だけで整理し消化し収める事が出来ない多くの事柄を目の当たりにしてきたわけで、それは当然に演劇創作に関しても変化もたらせた。

 

「迷子の遊園地」

 

一度は捨てたその名前を再び名乗る事にしたのは、自身が未だに迷子であることに気がついた・・・いや、再び迷子になってしまったと自覚したからかもしれない。そして、複雑化し、多様化し、それでいて”空気を読め!”という空気を充満させる社会の中で迷子になっている者たちの居場所となり、ほんの少しの支えとなる作品を生み出せれば・・・そんなことを思ったのかもしれない。またはただのノスタルジーか、得意の気まぐれか(笑)

 

ま、理由なんてどうでもいい。問題は「これからどう演劇と向き合うか」だ。それに関しては明確になりつつある。今、この20年で最も演劇と劇団活動に対してのモチベーションが高い。書けば書くほど、作れば作るほど、その想いは強くなる。正直、何処かで納まるモノと思っていたが、そうではないらしい。

 

此処に来てようやく「演劇=生きる事そのもの」という演劇と自身の関係に気がついた・・・というか素直になれたと言うべきだろう。命を賭して立ち向かうモノであり、「辞める=死」を意味することになる。(思えば一度解散したあの頃は死にたいと思うほど苦しい日々でもあった)

 

この20年で多くの事が変わり、多くの事が変わらないまま。進んだモノもあれば、後退したモノもある。失ったモノ、手に入れたモノ・・・それでOKな事もあれば、それではマズい事もある。

 

マズいのであれば、何とかしなければ!結果として何ともならなかったとしても、簡単なことではないとしても、そのまま放置はどうにもこうにも自身が許せない。そうなのだ!虐げられたり、抑圧されたり、愛情を向けられなかったり、自己を認められなかったり、心を病んだり・・・自分がどうにかそれらを越えていま生きているから「それでよし!」とはならない。済んだ過去にはならない。目の前に、手の触れるところに「ただいま真っ最中」の者たちがいて、声にならない声を発している。その声を聞く。そして、その声へどう応えるのか考えを巡らす。僕にとってそれが「生きる事そのもの」放置はあり得ない。

 

[人の為と書いて「偽」]

 

僕はこの言葉が好きだ。僕は僕が生きる為に演劇を求め、「声にならない声」に向き合い、日々痛みを感じながら今もこうして足掻き続けている。「誰かの為」ではない「お前の為」でもない。だからそう容易く諦めたりはしない。僕が僕である為に、迷子であり続け、迷子たちと真正面から向き合っていく。これからもずっと。それを止められるのは「天からの迎え」だけだ。

 

 

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”子供たち”へ

劇団を20年やってきたんで、それなりにいい歳になりました。それなので娘や息子でもおかしくない年齢の劇団員が増えて来ています。彼らに対し総じて感じる事は……。

 

「お行儀いいなぁ」

 

これ、僕的には褒め言葉ではありません。ハタチ前後をこの20年定点観察しているようなものだけど(最初の5年は自分と年が近すぎるけど)、年々「勢い余ってやらかしちゃう」みたいな奴が減っている。ここ数年は特に顕著で、皆「待っている」状態。稽古場にいれば「何か貰えて」「何かになれる」って感じで、そこにいるだけというか……。

 

「迷惑かけないなんて無理だから、トコトン掛けろ!」

 

これ、ここ数年の常套句なんです。どうも「迷惑をかけてはいけません」って刷り込みが半端ないみたいで…あと「泣いてはいけない」も。まずはそれを打破しないと始まるものも始まらない。

 

稽古場で人一倍感情曝け出し、馬鹿もやって、怒鳴って、笑って……時に直接、時に電話、時にLINEで、長話をして……ようやく僕と彼らの間にある「ズレ」が何で、何処から生まれるモノなのかが見えてきた。見えてきた以上、投げ出すわけにはいかない。

 

「お行儀いいなぁ」

 

それだけだった彼らが、泣いて、笑って、深夜にLINEしてきたり、抵抗、反抗してきたり……徐々にではあるけど”定型文”ではない声と表情を見せてくれる。確実に個性が出始めてきた。そして、気がついた。僕は「教える事」が好きらしい。変化していく彼らを見るのがたまらなく楽しいし、嬉しい。

 

もちろん単純に楽しい!だけではない。当然に楽ではない。でも、いや、だから楽しい。そう、僕は僕の楽しさがそこにあるから彼らと向き合っている。金儲けでも、誰かからの命令でもない。だから「迷惑かけないなんて無理だから、トコトン掛けろ!」でいい。遠慮などいならい。


「お前、メンドクセー」

 

これ、褒め言葉。もっともっと個性を曝け出して、ぶつかって来て、早くそう言わせてほしい。

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”デジャヴ”を越えて行く!

昨日は朝からひと騒動。”トラブルメーカー”始動(苦笑)でブチ切れ!!!!!この”デジャヴ”を”恒例”にしては行けない。与えられたのは最後のチャンス。

 

それを見事掴み取った!!!!!

 

とは言い難い。

 

しかし”もう次はない”は確実に伝わっただろうし、またそれを”忘れた”となれば、もうそれは”そこまで。”の話。劇団としての答えは出ている。あとは自分がどこまで自身と劇団と仲間を信じて”曝け出せる”か?

 

うまい芝居を求めているわけじゃない。そもそも「うまい芝居」なんて迷子の遊園地の辞書にはない。(ヘタはあるらしい 笑)その事を散々言われてきてもまだ「うまい」を求めている。だから「置きに行く」。しかし「何処にうまいがあるかわからい」(当然です。ないですから)で「迷走」。

 

「コレです」と、明確に”見本”や”答え”を提示してもらえれば簡単。でも、そんな”コピー”を集めて「作品です」としたいわけではない。自身が自ら考えて、模索し、挑戦し、失敗し、”痛み”と”悔しさ”を重ねた後に辿り着いた場所こそが””求めて来た場所”なのだ。仮にそこが”全くの新天地”ではないとしても、自ら・・・そこが大切なのだ!!!!!


と、まぁ、こんな話も”デジャヴ”(笑)


本番を前にして”個人の問題”などは存在しない。全ては”チームの問題”である。解決策は個人の中にはない。チームの中にある。つまり最小単位は”チーム”なのだ。だから「自ら・・・」それは個人個人ではない。個人の内側に”進む方向”が見えなくても怯える事はない。独りではない。

 

我々は迷子の遊園地。メンドクサイ者であり、劇団だ。
 

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壊してこそ

時に観る側に”強いる”舞台がある。内容も、演出も、劇場空間も、決して”お気軽に”などではない。セリフのみでは解読できない物語と感情。身動きも呼吸も瞬きさえも許されないような緊張。当然にその客席に座るには覚悟が求められ、役者が演技をするという行為に対しての技術が必要なのように観客にもまた観るという行為に対しての技術が求められる。

 

先日観た「ドグラ・マグラ」もそうだったと言える。

 

そういう舞台が僕は好きだ。映画はそうでもない。ポップコーンとコーラを楽しみながら・・・と言うような作品も好きだ。だが舞台はそうではない。観せる側、観る側の間にある種の”闘い”が存在し、互いに”試されている”という緊張感。それがあってこそ舞台作品。それは原点であり、目指すべきものである。

 

とは言え、それが”苦手”という人も当然存在する。むしろこちらの方が多数であり、だから「お客を増やしたい」のであれば、”強いる事ない作品”を選択する事は理解できる。分母が大きい方を選択するのは常套手段だ。

 

しかし、僕にとっての舞台が”強いる作品”である以上、そうでないモノは舞台でも演劇でもない。仮に【”強いる”事ない作品にすることが近道】を選んで、集客力アップしてもそれに対して喜びようがないのである。

 

もちろん自らの思う舞台作品で観客が増えることは望んでいる。だから必要な情報は発信するし、ネット頼りの広報はしない。手間も暇もかけ、汗もかく。でもノベルティーなど作らない。チケットの値段も下げない。何かで釣ったり、自らその価値を下げるような提示はしない。名が通った者ならばそれは”特典”にもなるだろう。しかし”未だ成し遂げていない者”がそれに手を出したら「これ以上、作品力ではどうにもならない」という宣言のように思う。集客ー何はともかく”作品に完成度”だと思っている。突きつめて突きつめて突きつめて突きつめて突きつめて・・・真に力を持った作品は、観る者の趣味趣向を、理屈を越えて受け入れられるもの。真に感動をすれば人は誰かに話したくなるものである。

 

”間口は狭い”と理解しているが、その上で多くの人に観てもらい。多くの人に酷評され、絶賛されたい!

 

「この街では・・・」と、口にするくらいなら、迷うことなどない”この街”なんて捨てればいい。
「アマチュアでは・・・」と、口にするくらいなら、迷うことなどない”アマチュア”なんて捨てればいい。

 

迷子の遊園地は「劇団」であり、それを主宰する僕は「演劇人」だ。「馬鹿だ!」と笑われてナンボ。”固定概念”を壊してこそ存在意義があると言うものだ。

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『ドグラ・マグラ』体験−終わらない舞台

「自分と言う存在が一番理解できない存在」と言うと少々陳腐だけど、それはやはりそうなのだと思う。

 

「私」それは「他人」に認知されてこそ存在する。「自身」は「私」が他人の内に存在している事を認知しようやく「私」を実感する事ができる。だから自己完結では「私」は成り立たず、生きている意義を見出すことなど出来るはずもない。「孤独」とは「私の不在状態」の事なのだろう。


「役者」という存在。「観客」という存在。も同じだろう。「役者」は「観客」、「観客」は「役者」に認知されることでその存在が明らかになる。もちろん「演劇」自体もそうだ。要するにこの世の全てがそうだ!存在が自己完結するなどない。であるから、僕と言う「自身」は今、「私の不在状態」にはないと同時に誰かしらを「私の不在状態」にしない存在となっていて、決して楽しい事ばかりではないが「幸福」な事だと断言できる。


演劇企画集団THE・ガジラ年間WS公演『ドグラ・マグラ』を観て、そんなことを思った。けれど、それは客席で考えていたことではない。むしろ客席では何も考えていない。ただただ目の前の世界に入り込んでいただけ。一瞬「これ以上、入り込んだら出られなくなる」というこれまでにない感覚を持ったほどに入り込んでいただけ。その時に体験した言葉、息づかい、蝋燭の灯、振り子時計の音・・・etc.が頭や腹の中でぐるぐると廻り、観劇後17時間経過した頃に不意に上記のような思いを形成した。僕の中に確実に『ドグラ・マグラ』が残っていて、きっとこの先も何かの拍子に何かを形成するのだろう。それは今回の思いとは全く異なるものかもしれない。いや、異なるものだろう。それが生まれた時に僕はそこに「正解か否か」ではなく、「私」の新たな断片を見てワクワクするのだろう。そして、そのすぐ後で「やられた!まだ続いていやがる、『ドグラ・マグラ』!」と出逢ってしまった不運と幸運に浸るのだろう。

 

僕が「お客にこんな思いをさせたい!体験させたい!」と言う事を、僕がお客として体験できた・・・本当にいい舞台でした。

 


書きながら、続きが湧いてきたので・・・それ↓


「私とは何者で、なぜ存在するのか?」と言う自問は思春期固有のものではない。はじめてこの自問をした時が自我の目覚めであり、そこからありとあらゆる人や物に触れて、抱えて、壊して、また触れて・・・と繰り返し「私」の断片を集めて行く。そこにはおおよそ誰しも何かしらの「欠落」が存在しているが、一方でそうと気付かない事も多々あると思う。そもそも「何が完成形なのか?」それを知らないからだ。だから「欠落」があると断言はできず、収集した「私」を認めたくないだけで「ないものねだり」の範疇かもしれない。しかし「完成形」を知らない以上、それもまた断言できるはずもない。「不安」とは「欠落の有無の不明」の事なのだろう。

 

生きて行くとは「孤独」と「不安」の中にいる状態で、そこから「抜け出したい」と足掻く事なのだろう。

 

それなのに!ここ数年間で出逢った者の中には「私」を「自身の中」のみに求め、見出し、「孤独」と「不安」を遠ざける事に必死になっている者が少なくない。初めて目にし、触れているのだから「出来ない私」「わからない私」とは当たり前に出逢うにも関わらず、それらの「私」を認めようとはしないで「自身の中」でのみ消化しようとする。なので一向に「出来る私」「わかる私」には近づく事が出来ず、その果てに「此処は自分の求めてる場所ではない」「それは自分の考えているものとは違う」と安易に納得できそうな理由を持ち出す。

 

それはそれで、「孤独」と「不安」の中にいる状態で、そこから「抜け出したい」と足掻いている姿なのかもしれない。それでも、どうしても違和感がある。そして、それを「処世術」だと信じさせてしまった「自身」の周りにいる「他人」に憤りを覚える。以前、僕の作品を観劇した方に「憤り、怒りが創作のエネルギーなんですね」と言われた事があるが、劇団を持ち続ける事もそうなのかもしれない。いや、以前は決してそんなことを思っていたわけではないが、ここ数年は「私」として自覚して始めているのだろう。だから「出来ない私」「わからない私」をどうにかして認めてもらいたいと、僕も足掻く。

 

「孤独」と「不安」の中にいる「迷い子」たちが集まって来る。まさに「迷子の遊園地」。まさに類は友を呼ぶ。放っておけるはずもない。その出逢いが劇的な変化に繋がるかどうかは誰にもわからない。わからないが出逢った瞬間に「私の不在状態」に変化が生まれていることは確かで、互いの「私」の断片が一つ増える。それらを繰り返し、僕たちは成長をしてゆく。早いか遅いか・・・速度は問題ではない。年齢も問題ではない。今の「私」を認めたくないだけで「ないものねだり」の範疇と映ろうとも、僕たちは「私」を諦めない。「未完成」だからこそ未来があり、希望を抱く。今度は僕たちが作り手としてお客に体験させる番だ。

 

 

幕が降りても決して終わらない。『ドグラ・マグラ』・・・本当にいい舞台。

 

 

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公演情報

旗揚げ20周年記念公演
[浜松公演]2017.10.28(sat)-29(sun) 木下惠介記念館
[静岡公演]2017.11.25(sat)-26(sun) あそviva!劇場

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