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重なり、混じり、露わになる「私の物語」

6月9日の事、演劇企画集団THE・ガジラ「フランケンシュタイン −現代のプロメテウス」観劇

まず思うことは、この舞台に、演技に出逢えて良かったということ。そして、やはり人間と言う生き物は歪で醜く美しい。複雑であるようで、実に単純というか純粋。がしかし、そこに対して素直に向き合えるか?という自問。

 

孤独。故に理解を求め、それに固執するあまり、自分に固執し、他者への理解が進まず、自分が身を置く世界への理解が進まない。

故に、自分への理解も進まない。

 

人生が物語なら誰しもが自分が主人公の物語を生きている。が、しかし物語は一つではない。

 

「私か主人公の物語」はそれぞれに存在し、ある物語では脇役として、ある物語ではエキストラとして、ある物語では読み手や観客として関わっている。それら全ての物語に存在する自分が自分であり、ある特定の物語…主人公云々、好き嫌い云々…だけを選び「私の物語」とは出来ない。

 

つまり、一つの物語があって、それが誰か「特定の人間の物語」でもない。関わり方に違いがあれど、無関係ではない。無関係ではないから妬みも恨みもし、理解を欲する。易々とは諦められない。が、単純に、いや素直に「寂しい」とも言えない。

 

ここ数年に新たに関わった「物語」が否応なしに重なる。そして、ガジラ版「フランケンシュタイン −現代のプロメテウス」も「私の物語」となった。

 

 

ヴィクター(岩野未知)、クリーチャー(守屋百子)、ジュスティーヌ(灘波愛)の演技には圧倒された・・・というより、観れた事に嬉しくなり、悔しくもなった。

 

伝えたい想いがあって生まれるのが「言葉」故に、伝えたいのは「言葉」ではなく「感情」「想い」。放って、受け止めて、変化して、展開してゆく関係性。そこに”生きている”という確かな存在。

 

ずっと言い続け、ずっと求め続けているものがそこにあった。目の前に。目指しているものの確かさを体感できたと共に、それがまだまだ先にある事も体感した。しかし、その事を共にそこを目指す者と共有できたことは大きい。「私たちの物語」もきっと誰かの「私の物語」となる。その為に、自分の生きている「物語」とトコトン向きう!


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