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裸以上の裸

このパンデミックの影響下で配信を始めた一人です。(ライブ配信の走りの頃に数回あるけど…)普段、舞台上で演じる事と配信で朗読する事の違いについて日々痛感しながら、思考錯誤しています。

 

最近感じた事は「自分が何者か?」と言う点です。

 

舞台で演じる時は「その役の者」です。決して藤田ヒロシという人間ではない。しかし、朗読する時はその藤田ヒロシになってしまっている感がある。詩を読んだり、一人称の物語を読んだりする時はそれでも何とか形になるのかもしれないが、そうでない場合はなんても居心地が悪い。だから無理やりそれぞれの登場人物になろうとしたりするが、そんな事は簡単ではないし、第三者視点で書かれている文章になると「結局、誰?」となり居心地が悪い。

 

その気持ち悪さの解消法として「朗読者」というシンプルな考えをした。特段、演じるわけでもない。自らの解釈を表現するわけでもなく、言葉を、文章を読む者だ。

 

それを持って練習をしていみると…それは自分の為に読んでいる人になってしまう。やはり他者の存在は不可欠だと気付く。そして自分の技術の無さを痛感する。動きや仕草、見た目…そういう事は何も使えない中で声だけで勝負する技術がないのである。

 

だからつい間の取り方や高低を使って何か表現しようとする。それは感情の変化に起因しているものではなく、素っ裸の状態でいられないから取りあえず手に取れる物を纏うと言うものだ。それがたまたまハマる事もあるが、そう都合よくはその場にあった色い合い、風い合いの服や布は転がってはいない。

 

もちろん、この現象は舞台で演じる時にも起こりうることだが、裸のなり方の違いと言うか、これまで裸と思っていたよりも遥かな裸が存在し、それと向き追う事になると知った。(厄介なものに手を出してしまった!)

 

…と、回りくどい書き方をしたが、要するに「自分が一体何をやっているのか?」が明確でないのだ。

 

そこで、取りあえずまずギターを手にしてみた。即興で弾きながら言葉を発する。(歌うわけではない)拙い朗読技術にさらに拙いギター技術を合わせたので自分の拙さを痛快する事になったが、別の発見もあった。

 

音とリズムが加わる事で「読む」事に余計な神経を使わないと言うか、無駄な力が入らないと言うか、言葉を発するという行為が自然であるという点だ。だから声自体にも変化はあり、「自分のやっていること」が不明確ではない。不明確でないから他者に「伝える」という意識が生まれる。(出来ているか否かは別として)人様に聴かせるような腕は…とギターを手にする事が減っていたが…それをあえて持ち込んだ事で「他者に聴かせる」という意識がいやでも生まれたのかもしれない。

 

とは言え、所詮まだ「身内の宴会芸」程度。このままでは続ける意味はない。生身の人間同士がぶつかり合い、同じ空間にそれを観る者も居て、その空気感と時間を共有する。そういう体感が重要な舞台。それをしたいなら今はじっとそれが出来る日を基礎練習をして待てばいい。企画を練って、台本を綴って待てばいい。

 

が、いまそうしてないのだから舞台演劇の事は置いておいて、いまやりたい事をやり切れる力を付けたいと思う。


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