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わからない私の省略

私には血の繋がりはないが"四人の娘"がいる―

 

そんな書き出しで始める文章を、このブログやSNSで何度書いて来たことか?先ほどこのブログに書いた『わからない私とはだかの王さま』内で登場する「見えていないフリをする者」は全てがと言う事ではないが彼女たちの事である。

 

付き合いの長さがのせいもあるが上から二人は確実に自覚があるだろうし、三番目もそれが愛情の証と思っているかも知れない。末っ子はまだまだ自分の事で手いっぱいかも知れないが(笑)、いずれわかる時が来て姉たちとそれを肴に酒を呑むだろうが、ここで書きたいのは娘たちの話ではない。

 

娘になり損ねた者―その、いま明確に思い描く事が出来る三人を書きたいと思う。(それぞれに書くと長くなるので、まとめてとなってしまう事を当事者にはお許し頂きたい)

 

皆、元劇団員だが彼女たちがなぜなり損ねた者なのかと言えば、見えていないフリを出来なかった者だからだ。ならば『わからない私とはだかの王さま』内にある「フリする事に我慢できなかった者」と言う事になるのかも知れないが、彼女たちはまた少し違った状況にあったと思う。

 

彼女たちはまだまだ未成熟でしかなかったのが、あまりに他者とその成熟度合いを比較し、自分自身に自信を持ててはいなかった。これも『わからない私とはだかの王さま』内にある「跳び箱の例え」に沿って言うなら「6段と跳べる可能性を十分に持ちながら3段しか跳べない」と答えたり「みんなが6段なら私は3段くらいだな」と答えたりするのだ。でもその内側には「きっと6段はいけるし、いずれ10段も跳べるようになる」という憧れよりもずっと強固な意志を宿していた。

 

この内と外のアンバランスさをどうにかしようと迷子の遊園地に来たのだろうが、そこにいたのは「わからない私」である。もちろん最初はそれとは気付かず、私を信じ共に創作する事で自身のアンバランスさを改善し「10段跳びます!」と言える自分に成れると信じていた事だろう。

 

当時は公演頻度が多かったので、言われている事はもっともと思えるのに実際にそれを実行出来ている感覚がないと気付くのには時間はかからなかっただろう。そうだ。私が口にするのはいつだって聞きかじったもっともらしい事で、言っていること自体に大きな誤りはないが、中身を伴わないので成長……跳び箱の段数が増えていく事がない。ただそれが違和感程度だったので、娘たちをはじめとする見ないフリをする事の利などは知れないし、かと言って「フリする事に我慢できなかった者」と同じなわけでもない。故に彼女たちは「娘になり損ねた者」なのだが、同時に「フリする事に我慢できなかった者」にもなれなかった者でもある。

 

そのどっちつかずの状態がこれまでの経験になく、私はただただ困った。嫌われるでも好かれるでもなく、否定されるでも肯定<フリ>されるわけでもない。後退するでも進むでもない関係性が、互いのイライラとモヤモヤを増幅させていった。

 

そんな状態で迎えたある公演。(ここで詳細は割愛しますが)その公演が大きな転機となった。そのままでの関係性では双方にとって利がない。と、ようやく私の腹が決まったのだ。当時の私は彼女たちもまた娘(のような関係性)になってくれればと思っていた。それが今後の劇団の利になると思っていたからだが、それは私の利でしかなく彼女たちには一切の利がない事に気付いたのだ。いや、ようやく認める事が出来たのだ。

 

もちろん三人三様ではあったが、それぞれに劣等感を抱えそれらと必死で向き合おうと闘っていた。その点が誤魔化し続けている私とは決定的に異なり、この違いがある思いへと繋がった。それは、彼女たちは10段を裕に跳べる能力をもっているのではないか?と言う事で、それはそのまま迷子の遊園地いや、私とどっち付かずの関係性を保っていても開花しないのではないだろうか?という思いに繋がり、明確な決別の時が来たのだと知った。

 

しかし、私の予想に反しその決別は簡単ではなかった。違和感を持ちながらも、彼女たちにとって退団……何かを辞めるというのは単純にネガティブなものでしかなかったのだ。辞めると言う事がより適切な環境へのステップアップとはその時点では受け止められなかったらしい。または一瞬でも仲間と信じた者との別れには躊躇があったのかも知れない。とにかく「辞めます」を引き出すまでに、公演後も幾つかの山や谷を通り、互いにそれぞれに痛みを与え、受け、そうやってようやく「辞めます」となった。最後は本当にパワープレーだったので相当に心を傷つけた事だろう。それにより私を恨んで言うかもしれないし、外側の人間には身勝手な我儘主宰となったが、そんな私の評価など彼女たちの未来の前ではどうでもいいことだ。いま、または今後彼女たちが「辞めてよかった」という思いをそれぞれに持っていればそれでいい。

 

私には手に余る無限の可能性を秘めた才能たちは、今その開花に向けてより適した環境でそれぞれに成長をしていることだろう。私にはない本物に触れようとそれぞれの旅をしていることだろう。そして、そう遠くないうちにこれを読んでいる皆さまにと出逢う時が来るでしょう。是非、その機会を逃さないで欲しい。

 

彼女たちの人生の物語にポジティブな要素として登場は出来なかった私だけれど、出逢った事実は変えようがない。しかし、彼女たちが自らを語る時には省略されてよい存在ではある。だから、会えなくなろうとそれはもうとっくに覚悟の上ではあるが、勘違いして欲しくないのは私の側にはあの公演も含め一切の恨みはないと言う事だ。もし、そのように思われる言動が私にあったのだとすれば、それは君たちの持っているものに対する嫉妬に他ならない。そう、当時はそれさえもわかっていなかった私だったのだ。

 


さて、最後に娘たちへ少し。これまでずっと「向こうがそう慕って来るのであれば、こちらが否定する事ではない」と思って来たし、そう慕われる事は確かに私の原動力でした。それは感謝しかない。でもそろそろ、もう私の面倒などはよいのでそれぞれの世界でそれぞれに一層の大輪を咲かせて下さい。


わからない私とはだかの王さま

当たり間の話だが、私にはわからない事が多い。だから、わかろうとしてみるが、やはりわからない事が多い。それでいい事柄もあるだろうが、それでは駄目と言われる事もある。それでも私にはわからない事だらけだ。

 

それなのに、わかっているフリをする。フリをするならまだいいが聞きかじったもっともらしい事をあたかも自身の探求の結果として語る。さならには、それを聞いた者がそれをうん、うんと頷くのを見て高揚し、また聞きかじった事を自慢げに語る。 

 

当たり間の話だが、私にはわかってはいない。だから、わかっている者からすれば、それは透けて見えている。それでいい相手もいるだろうが、それでは嫌な相手もいる。それでも私は透けて見られている。

 

それなのに、見えていないフリをされる。フリをされるならまだいいがそれをいい事に私は私を過大評価する。しかし、それこそが見えていないフリをする者の狙いの一つなのかも知れないとも思う。

 

わかっている者は私の半端さ、空っぽさを熟知しているがそれを指摘したところでそれは意味のない事だと思っているのだろう。そんな事をして弱き愚か者を貶めても自分に利のない事も私に利のない事も双方の周りに居る人に利のない事もわかっているのだろう。だから、聞きかじったもっともらしい事をあたかも自身の探求の結果として語る私を「ああ、またやらかしてるね」と思いながらもうん、うんと頷いてくれているのだろう。そうやって高揚してゆく私の精神を優しいまなざしで見つめてくれているのだろう。そう思うと、これまでの事が幾つか、いや多くの合点がいくのだ。

 

その最たるのが、己の言葉をを持たず、客観的な実績も評価も持たない素人同然の私がこれまで20年以上にわたり劇団主宰者を名乗る事が出来たことだろう。きっと、短期間で去っていた者は他の者が見えていないフリをしている事に我慢ならず、何よりそれを知らないで高揚している私に我慢ならずに去っていたのだろう。その事に落ち込む私を見て、残った者はまた見えていないフリをしてうん、うんと頷き私を高揚させようとしたのだろう。そうする事が迷子の遊園地という自身の大切なものを守ることだとわかっていたのだろう。

 

そう考えると、先日の朗読配信で私が「はだかの王さま」を読もうと思ったのも、例えそれが青空文庫を適当に眺めていて決めたのだとしても必然の事のように思える。

 

あの物語に登場する人物たちの中で私が最も遠いのは「詐欺師」だ。それは人を騙す事がないからではなく、耳触りの良い言葉にすぐに騙される側であるからだ。または「王さま、はだかだよ」と見えたままを口にした少年。彼もまた遠い存在だ。自分の見たものを素直に信じられる素直さは持ち合わせてはいない。もし私があの場にいて肌着姿の王さまを見たとしても、まわりの人々の様子を伺い、自分の取るべき行動を探りそれに従っただろう。確実に私は騙される側の人間。つまり、地位を失う事を恐れた王さまであり、家来。バカだと思われたくない町の人々だ。

 

記憶の中では「この布はバカでは見えない」となっていたが、今回読んだ大久保ゆう 訳では『自分にふさわしくない仕事をしている人と、バカな人にはとうめいで見えない布なのです』とあった。私はどちらか?と、それは考える必要はない。どちらもなのだ。ふさわしくない事しているバカであり、バカであるから自分のふさわしいがわからないのだ。と言う事は、自分にふさわしくない仕事をしている人と、バカな人は同じ事を言っているのでは……と思ってしまうが、一体バカとは何者を指すのだろう?

 

人はそれぞれに出来る出来ない、高い低い、優劣はある。劣=バカとしたくなるが、そうではないと思っている。私は自分の実態が何処にあるかを把握していないのがバカだと思っている。故に高い能力を持ちながらもそれに自らが気付かずにいればそれはすなわちバカなのだ。

 

例えるなら、何段の跳び箱を飛べるかという事に対し、6段跳べる者が「4段位です」と下に見積るのも「10段飛べます」を上に見積もるのもバカだと言う事で、3段までしか跳べない者が「3段です」というのはそれに当たらない。下に見積もれば失敗はしないだろうが7段に挑戦し成長する機会は得られないし、上に見積もればホラ吹きだ。3段であればそれを素直に認めて受け入れる事で4段目へ向かう機会とヒントに出会う事が出来るのだから、確実にステップアップしてゆく可能性を十分に持っている。決してバカではない。

 

つまり、私は6段しか跳べないのに「10段飛べます」と言い放つバカであり、それがばれないように有りもしない服を着こんで「王さま」気取りであるという人間になる。ただ物語と異なるのはそれに気付かずに「自分はバカだから見えないだけなのだ」と思う者が私のまわりにいるのではなく、「王さま、はだかですよ」と真実を口にした所で国が混乱するだけで利がないことを知っている賢者に囲まれていると言う事だ。故に、私が幾ら嘘や虚勢を見せても、賢者相手に騙しを打てるはずがなく、私は詐欺師からは最も遠いと言う事になる。

 

 

実はこの「跳び箱の例え」は私が良く稽古場で話す事であるが、それもまた、何処で聞いたかはもうすっかり忘れてあたかも自身の探求の結果と思い込んでしまっているが、聞きかじったもっともらしい事の一つだろう。


たまには純粋な愚痴を

この週末幾つかお誘いを頂いたが、どれも受ける気なし。何をするにしてもお金がかかる。それを費やす価値があるのであればいちいち細かい事は気にしないタイプだが(少しは気にしなさい。給料日前に困ります)、その価値が見いだせない。「いろいろあるし、行った方がいいかな」と算段してしまう。そして算段して逢う仲ではない(と思っている)ので、受けない。行かない。今は「<お金」なのである。

 

なんでもかんでも「コロナ」のせいにして根本的な問題点を見失いたくはないが、「もっと演劇に時間を!」とのおもいから今年初めに仕事を変え。ライフスタイルを変えた。これが裏目に出た。多分、経済的には変えない方が安定していた。時間も取れた。どうにか今週くらいから微調整に入り、来月には「当初の予定」に近づくだろうが、肝心な「演劇時間」が取れない。というか、公演がね・・・。

 

公演が思う様に打てないのには金銭以外にも人員の問題もある。20周年記念公演以降退団が相次ぎ、昨年には3名に戻った。自主公演を打つとなると外部から招く必要がある。もともと交流の少ない迷子の遊園地、しかもコロナ禍、声をかけるのもままならない。新たな団員も入って来ない。(本気で探せ)

 

場所の問題もある。「もっと演劇に時間を!」は「浜松以外で公演を!」と同意で、静岡市など県内はもちろん(嗚呼、東部に行きたい!)お隣豊橋市や京都、大阪の関西圏、もちろん東京へ再びとも思っていたが、今はちょっと難しいと思ってしまって動けていない。

 

ではせめて市内で!となっるのだが、何処で?となる。「今までやっていたところは?」と思うかもしれないが、今は「劇場」でやりたいのだ。「演劇を上演すればそこが劇場」という思いから施設の分類として劇場でなくても公演をして来たが、今は分類としての劇場でやりたいのだ。帰りたいのだ。

 

ないよね、浜松って・・・となってしまう。

 

ああ、いっそのこと時流に逆らない東京にでも移住しようかな。

 

ないよね、お金が・・・となってしまう(笑)

 

ならいっそう、朝から晩まで身を粉にして働いて「人生、お金」と言い放って生きて見るか!と考えてはみる。コロナ禍だろうがなんだろうが人手がなく、働ける場所はある。(提供する労力と給与が見合っているかは別)それも悪くない。悪くないが「どうしたの?」と言われると「コロナでね」と言ってしまう。そのせいではないはずなのに。だから、いまその選択はない。

 

演劇を辞めるも同じで「なんで?」と来かえると「コロナでね」と言ってしまうだろうし、勝手にそう思われるだろう。それは嫌なのだ。辞めるチャンスはいくらでもあり、それでも人生の半分以上の関わってきた来たものを自分の納得や限界とは全く違う要素で終わるのは嫌だ。もちろん、人生なんてそんなもの。不条理。と知ってはいる。それでもここまでそれを"無視"して"大人"にならないで来たのに…46歳という何とも半端な時にそれはしたくない。「なら30歳の時に」と人生を悔いてしまいそうだ。

 

・・・と、書いていたら何を書こうとしていたか忘れた。「ま、いいか」・・・何も"解決"はしないけど。


うっとうしくて、うんざりな我が演劇人生

「孤影と接吻#4」が終わりました。ご来場いただいた皆様(#3より多かった!)配信ご覧いただいた皆様(#3よりちょっと少なめ)、ROBANOMIMIさん、心より感謝です。

 

 

44歳の誕生日の時(2年前)にも公演をしましたが、やはり誕生日というより公演日という感覚が圧倒的で「今年の誕生日来た?」って感じです(笑)もし誕生日を「祝ってもらいたい」のならパティーを開くに限る。ただ自分が今あるのが多くの人たちのお陰だと実感し、感謝する日としたいのなら公演を打つもいいでしょう。

 

昨日は家に帰り、差し入れの(誕生日プレゼント?)のビールと日本酒を飲んで、ほろ酔いでギターを弾いて、これまでの演劇人生、その様々な景色と感情が込み上げてきました。

 

何かを成し遂げたわけでも、認められたわけでもなく、誰かを育てたわけでも、残せたわけでもない演劇人生。終わる事からも立ち向かう事からも逃げて来た演劇人生。昨日の作品の中に書いた台詞『辞めりゃよかったんだよ、東京から逃げて来た時に。死ねばよかったんだよ、東京で不覚悟を知った時に』ずっとそう思いながら続いて来たうっとうしくて、うんざりな……中途半端な演劇人生。それが「私」の人生なのだと。

 

アフタートークでも言いましたが、「私」を書いた三作品(この手で触れて・むだつかい・てふり)を通してようやく自身の嫌いな部分、認められない部分を晒せたと思っています。やり切れた!と言う感じはないのですが、ここまでこれたと……若かりし頃の不覚悟と不義理。嗚呼、やっと贖罪の時が来た―そう思っています。

 

これからはオリジナル台本を書きません。公演をするのであれば既成台本か二次創作的な作品になります。しかしいま現時点で明確な構想はなく、従って次回公演までは時間が開くかと思います。それでもいつかその日は来ます。来ると信じて生きます。その日まで、皆さまもご自愛ください。

 

それではひとまず『さようなら』

 

追伸:「私」を昇天させる為に三作品の台本、動画を公開するつもりです。


やりたい事

「役者をやりたい」と、自分が再び思うなんて想像していなかった。だから、なかなか素直にそれを認められなかった・・・というか、気付けなかったのだろう。ハッキリと意識したのは・・・いつだろう?2018年の東京公演「離々として連々」に出演すると決めた時だろうか?その公演を終えた後だろうか?

 

とにかく、その公演以降に「孤影と接吻」というタイトルで一人芝居を始めた。一回目は"ぼっち企画"として当日の運営まで一人でやった。二回目は劇団所属のさおりと同台本を元にした"対決"。これを機に「孤影と接吻」を藤田ヒロシVS○○○という企画にしようと思っていたが、この感染症騒動。人に声をかけづらくなったので三回目はまた私の一人芝居集に戻った。そして、今週末に4回目を行う。

 

毎回二本の短編を上演するが一回目と三回目はその内の一つが『1974年、昭和49年8月30日・・・』という自身の生まれた日の話から始まる私自身の話である。一回目では父と対峙し、三回目では母と対峙した。そして今回も私の話を上演する。対峙するのは・・・今回は身内ではない。でも親と同じくらいに人生において影響力を持つ立場の者と対峙する。そして、今回初めて自身の生まれた日の話から始まる私自身の話をその生まれた日に上演する。いいきっかけの様な気もする。

 

「もうオリジナル台本はやめよう」

 

役者をやりたくなったのは、演者として他者と向き合い変化・創作していく事が楽しかった。それ以外にも逢ったのだと思う。劇作から離れたかったのだろう。でも、なかなか素直にそれを認められなかった・・・というか、気付けなかったのだろう。自分が本当にやってみたいと求めていた事に。

 

新型コロナ、自粛期間・・・私も朗読を配信した。自身の言葉ではない文字を発した。それは難しく、楽しい。"昔読んだことある"程度の作品に再び触れると記憶の片隅にあるそれとは全く違う景色が見えたり、時間や場所を超えた普遍を感じたり・・・音と声、声と想い、そんな違いについて考えさせられたり・・・いい時間だった。いや、いい時間だった、にしたい。

 

「嗚呼。これがやりたいんだな」

 

と、数週刊前に不意に気が付いた。それが何かは具体的に作品や公演と言う形にする算段出来てから明らかにしたいが、いま言える事は・・・「孤影と接吻」の四回目。これが自身のオリジナル台本を自身で演じる最後である。と言う事。

 

46回目の自身が生まれた日。終わりと始まり。待ち遠しい。


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